猫の備忘録

 

 

 

 6月15日、月曜日。
野良猫がわたしの家に来た。
 拾ったとかではなく、シンプルにふらっと立ち入ってきただけの一見さん。

 

 日が暮れて明かりなしでは周りが見にくい時間帯、遠くから「ニャー」とあのテンプレのような鳴き声が聴こえた。
 わたしが声の主を探して外に出ると、敷地の奥へと続く道の真ん中に、何やら白っぽい後ろ姿が見えた気がした。だがわたしの気配に気付いたようで、俊足で逃げられてしまった。
 急いで追うと、身体は足のほうが白くて背中と尻尾と耳周辺が黒い、大人と子供の境目みたいな大きさの猫が、伸びきった草の陰に隠れてわたしを見ていた。

 

 「怖くないよ」と文字通り猫なで声で声をかけたが、宝石のように透き通った大きな双眸はわたしをまっすぐ見据えるばかりで近付いてはこなかった。
 しばらくそのまま見つめあったが、やがてわたしは折れて家の中へ戻るしかなくなった。

 


 観かけたまま放り出していたドラマの続きを再び観ていると、外から聞き覚えのある鳴き声が、今度は近くから聴こえた。
 「さっきのあの子だ!」。わたしは嬉々として再び外に飛び出た。もちろんドラマは一時停止して。

 

 わたしの家には大きな岩で囲まれた小さめの庭がある。以前までのそこには立派な松の木が存在感を放ち、雑草などもわりとこまめに抜かれていたが、その松の木は数年前に病気になって根元から切られてしまい、雑草も抜く頻度が減りかなり増えた。
 今では百日紅やら観賞用の小さな柿の木やらと何本か木が植わっているだけの、何だかこぢんまりとした、おおよそ庭らしくないような場所になってしまった。


 そこに、あの猫がいた。


 思わず触りたくなるふわふわの身体、ぴんと立ったやわらかそうな耳、愛くるしく揺れる尻尾。
「一目惚れ」というものが人間以外にも通用することが証明された瞬間だった。あれはもはや恋であったと言ってもいい。
 わたしが少し距離を詰めると強ばる身体に触れてみたくて仕方なかった。


 猫がまた鳴いた。
興味本位で、まったく同じ音と声で鳴き返してみた。
すると猫がもう一度鳴いた。わたしもすかさず音と声を用意して返す。
しばらくその攻防戦であった。さながらラップバトルである。

 

 その後猫は岩の上に飛び乗り、あろうことか完全に腰を落としてリラックスし始めた。いいのか初対面の人間の前でそんなあられもない姿を曝して!!
 どうにかその姿を捉えたくて、わたしはカメラを構えた。逃げられるかと思ったが、猫はそのまま岩でくつろいでいた。

 

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ブレまくりで、急いで構えたことがよくわかる。

 

暗かったのでフラッシュを焚いたが、それでも猫が逃げることはなかった。

 


 猫が別の岩に移動した。わたしはそれを追った。
再び腰を下ろした猫は、エジプトのスフィンクスの如くどっしり構えて前足を組み、いよいよ本当に落ち着いた。

 

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かわいい。


 猫がまた鳴いた。わたしもそれに続く。そしてまた猫が鳴く。そしてまたわたしも鳴く。
 そのときなんとなく、わたしたちの間に絆のようなものが生まれたような気がした。

 

だんだん猫の目が細くなっていった。わたしはまたカメラを構え、フラッシュを焚いた。

 

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眠そう。かわいすぎる。

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こんなん愛しちゃうって。

 

 眩しいはずなのに猫はそのまま目を閉じ、首を前へと傾けた。
 さすがに落ち着きすぎなんじゃないか…?いくら何でも初対面の異種族の前でする態度じゃないだろこれは。わたしがメチャクチャな極悪人だったらどうするんだ。
 そんな心配をよそに猫は微睡む。首を右に左に傾け戻して、時々目をぱちぱち開いて閉じて。

 

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ハーフカメラ最高。


 わたしはそのどれもを、一瞬も逃さないようにシャッターを切り続けた。

 


 猫がまた移動した。
今度は植木鉢やポストが集まった玄関へ。
草花に囲まれた中にいる猫は本当に愛らしかった。

鉢植えの陰から首だけ出してこちらを覗いてみる猫。また目を閉じて微睡んでみる猫。この世の魅力のすべてがそこにあった。

 

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目が綺麗。

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また眠そう。かわいい。

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これはガチのイチオシ写真。ほんとは見せたくないけど世界平和のために見せてあげます。感謝してください。

 


 相変わらずわたしは写真を撮り続けた。

何枚撮っても飽きなかった。被写体がいいといくら撮っても撮り足りないということがわかった。
 やがて、部屋着に素足でサンダルを履いただけの格好をしていただらしないわたしは蚊の食堂になってしまったようで、脚を刺されまくり、さすがに嫌気が差して家の中に入った。だが猫のことはまだ見ていたかったので、ドアを網戸にしてそこからまた眺めた。そうなっても猫はまたこちらを見ていた。

 

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キャンバスに描いた油絵みたい。

 

 

 しばらくして、猫がわたしに背を向けどこかに行ってしまった。猫に行かれてしまってはどうしようもなかったので、わたしもリビングに戻って止まりっぱなしの物語を再開させた。

 


 面白かったドラマの時間も終わり、そういえば、愛くるしいネコチャンの写真がこの世にまた増えてしまったことを思い出した。
 現代人なのでTwitterで共有しまくってやった。するといいねがいっぱいきた。やっぱみんなネコチャン好きなんだね。

お前ら普段もそれぐらいいいねしてくれや。

 

 すると外からまたわたしを呼ぶ声が聴こえた。すっかりニュースになった画面を消し、応じた。
舞い戻った猫は、今度は真隣の祖父母の家の庭にある岩の上にいた。こちらの庭の松の木はまだ元気であるため、その下にいた猫は岩とも相まって何だか絵になった。
手を振ってみる。すると猫はひと鳴きして再びどこかへ行ってしまった。
なんだ、と思いながらわたしは風呂へ入りに行った。

 

 風呂から出たらさすがにもう猫は来なかった。
まぁそうだよなと思いながら、好きな曲を聴いたり動画を観たりしていつも通りの夜に戻り、寝た。

 

 

 6月16日、火曜日。
本当に梅雨か?と思うほど晴れやかな天気で、うざったいほど暑かった。

 夜になってもあの猫は来なかった。母と「今日は来ないね」と話した。
見知らぬ人間の前で寝そうになるような人懐っこい猫だ。やはり飼い主がいたのかもしれない。
 そう思うと少し切なかったが、それなら踏ん切りがつくというものだ。
世の中そう上手くいかないなと思いながら扇風機の風に吹かれた。

 

 

 6月17日、水曜日。
学校の授業でフリートークをした。
 テーマは自分の好きな「本」について。
その最後に『星の王子さま』の話をした。キツネの

「きみは、きみのバラに、責任がある……」

という好きなフレーズも紹介した。

 

 この日も暑かった。
家のジュース類が切れていた気がしたので、学校帰りに家から徒歩30秒ほどのコンビニに行くことにした。
 細い歩道を自転車で走る。家を過ぎて少し、本当に少しだけのところに、ドブを浚ったときに上がった枝や泥やゴミが積み上がっている箇所があった。それはかなりの頻度で出現しては放置されているので毎回「さっさと片してくれよ」と思うが、そんな汚いものをどうにかしようとする物好きはそうそういるものではない。

 

 その陰に、何か生き物のようなものが見えた、気がした。いや、正確に言えば「気がしたと思いたかった」。
なぜなら「それ」がもう生きてはいないであろうことが、自転車から見た一瞬だけでわかったから。

 


 そして、わたしは「それ」に見覚えがあったから。

 


 一瞬で心臓が冷えるような感覚。嫌な予感しかしない。嫌な未来しか見えない。
 見たものも速くなる鼓動も一旦スルーしてそのままコンビニに駆け込み、炭酸飲料を買った。とにかく気分だけでもさわやかになりたかった。
 コンビニからの帰り。自転車に乗るのをやめて、押して歩いた。なぜかそのほうがいい気がしていた。
 今度はゴミ山の手前になった「それ」。
自然と足が重くなる感覚。これ以上進みたくなかった。これ以上わかりたくなかった。

いや、本当はもうずっとわかっていた。

 


 それは、月曜のあの猫だった。

 


 足が止まった。
見ずにはいられなかった。最期のまま止まった猫を。
 八の字を描きながら蝿が2匹飛んでいた。いつもなら「鬱陶しい」で済むそいつらがとても憎かった。
 小さな口は力なく開き、頼りない小さな歯が剥き出しになっていた。

身体は左半分が下になり、頭においてはよく見ると潰れているようだった。
 わたしはじっと猫を見つめたまま、動けなくなった。
痛々しい姿。ぴくりとも動かない小さな身体。
 触れてやりたかった。だが先日母に「絶対に野良猫には触るな」と言われていた。祖父母もいる家に何か持ち込んでしまったら、子供のわたしには責任が取れない。
 すべてにおいてわたしは無力だった。
 自転車があるのに乗らずに、しかも猫の死体の前に立ち止まっている怪しい女の横を車たちが通り過ぎていく。
さすがにまじまじと見続けるのもまずいかと思って、わたしはその場を立ち去った。

 


 そのとき、音楽が聴こえてきた。そういえばわたしはイヤホンで音楽を聴いていた。
Perfumeの『再生』だった。ああ、変なの。このタイミングでこの曲が流れるんだ。
 この歌は元々映画の主題歌として聴いたのがきっかけで聴き始めたもので、ネタバレになってしまうので詳細は伏せるが、映画のキーパーソンやキーアイテムを上手く表したタイトルと歌詞でとても好きな歌だった。


 再生してくれよ、あの映画みたいに。またふらっと遊びにきてくれよ。今度はちゃんとおいしいものあげるからさ。
 そう考えていたら涙が出てきた。
最近以前に比べたらよく泣くようになっていたが、まさかたった2時間ほどしか共に過ごしていない猫のことを想って泣くとは思わなかった。

 

 家に着いたので音量を下げようとイヤホンの音量調節ボタンのマイナスを押す。が、音が下がらない。押す場所が悪かったかと少しずらして押してみても音量は変わらない。
 不思議に思いながら調節ボタンの真ん中を押して一時停止しようとしてみても、音楽はやまない。
 おかしい。
プラスもマイナスも関係なく何度もボタンを押すが何も変わらない。
 ならば、とスマホ本体の音量調節ボタンを押すがこちらもまったく反応しない。画面に表示された一時停止マークを押しても何も起きない。

 いよいよ怖くなりイヤホンをスマホ本体から引っこ抜いたらようやく止まった。
何がいけなかったんだろうと、もう一度イヤホンを挿して、やっと止まった『再生』をまた再生する。すると何事もなく音楽は流れ、イヤホンの調節も本体の操作も効いた。
 未だにあれが何だったのかよくわからない。
怖がることなく最後まで再生していたら、何か変わっていたんだろうか。

 

 

 洗濯物をしまい、喉を通りにくい昼食を食べてから隣に住む祖父母に「すぐそこで猫が死んでいる」と報告しにいった。すると祖母に「あの白黒の猫なら昨日の夜から死んでたよ」と言われた。

 すっと肝が冷えた。

 「昨日」。火曜の夜だ。
 わたしが猫と出逢ったのが月曜の夜。つまりそのきっかり翌日にはもう既に死んでいたのだ。
「来ないね」と話していたときにはもうすぐそこにいて、動かなくなっていたのだ。
 恐らくわたしの家に来た日、わたしと別れた数分後にはもう死んでいたんだろう。
あの手を振ったときが本当の別れだったのだ。
 当時のわたしはそんなこと思いもしなかった。また猫が家に来て、「やっぱりまた来た」と思いながらまた鳴きあって、またカメラマンをするんだとばかり思っていた。
 その「また」が二度と来なくなるなんて、あのときのわたしにはわからなかった。
一瞬見ただけでも痛々しい死に方をしたことがわかる死体になっているなんて思わなかった。
 ACのCMも馬鹿にできない。猫はやはり家の外に出してはいけないのだ。


 それからしばらくして、仕事から帰ってきた母に猫の顛末を話した。
母はわたしが撮った写真とわたしが大騒ぎする様しか見ておらず、生きた猫の姿は見たことがなかった。
 驚いた顔をした母は、「だから来んかったのねえ…」とだけつぶやいた。

 


 水曜は夜間も学校がある日であった。
その帰り。家に着いて車から降り、もう一度猫の元を訪れた。
 スマホの懐中電灯でやはり動かない猫を照らす。今度はしゃがんで、より近い距離で弔うことにした。
 潰れた頭には既に蟻がたくさん寄っており、地面が黒いのは血が固まったせいか蟻が群がるせいかよくわからなくなっていた。
 まっすぐこちらを見つめてきた、あの綺麗だった目ももうどこにも見当たらなかった。会ったときも暗かったから、本当は何色をしてたのか知らないまま、知る機会も失われてしまった。
 そして、愛らしい声でわたしと会話した口はまだだらしなく開いていて、もう何も咀嚼することはない小さな歯が覗いていた。あれが最後だったなら、やっぱりなんかおいしいものあげたらよかった、と思ってまた涙が出た。
 白い足も黒い尻尾も三角の耳も投げ出されたままになっており、生命力だけがなかった。クリームパンみたいな足先に、やわらかそうな肉球が見えた。だがもうそれが地に触れることはない。
 野良ながらも艶があった毛並みも心なしかくすんでいて、ところどころべたついていた。

 

 当たり前だがこの文章はノンフィクションで、記憶だけで書いている。
 そう、つまり写真がなくても詳細に現場の話をできるほど観察した。猫の死体を。
 途中嘔吐きもしたが、それでも見続けた。猫のすべてを目で見て感じたかったのだ。
 触れたかった。猫が死んでしまってもなお、ずっと。いや、猫が死んだことによってむしろその思いは強まった。
 触れて、抱き上げて、隠れた左半身がどうなっているのか知りたかった。この猫はどんな重さで、どんなやわらかさで、どんな毛の硬さで。どれも生きているうちに知ることのできなかったことばかりだ。
とにかくこの”猫の死”というものの全貌を脳裏に刻みつけたかった。

 

 だがそれらは、猫が死んでもわからなかった。

わたしは結局触れることができなかった。
母の言いつけを守ったのではなく、ただ怖かった。
死んでしまった事実もそうだし、きっと即死だったであろうこともそれを助長した。
 もう二度と、生きては会えない。
見知った人が死ぬたびに感じてきたその感覚がまた蘇った。それが恐ろしかった。
 わたしの目の前にあった”死”は、命の大切さなどではなく、命の儚さだけを思い知らせた。
 いつか見知らぬおっさんかおじいさん、またはおばさんが、猫の死体を見知らぬ場所へ連れていって燃やすか何かするんだろう。
 わたしたちのことは、誰も知らないのだ。

 



 先述した『星の王子さま』のキツネの言葉は、実は

「なつかせたもの、絆を結んだものには、永遠に責任を持つんだ」

というセリフの続きだ(まさかそんな話をした帰りにあんなことになるとはこれっぽっちも知らなかったわけだが)。

 

 あの猫がわたしに懐いていたかはわからないが、少なくとも絆は結んでいたと思う。
だから、今回このブログを書こうと思った。
「忘れないよう文章にすること」。これがわたしの責任だと思ったから、書いた。
 会えたのはほんの、ほんの一瞬だったけど、君を愛せてよかった。
 愛させてくれてありがとう。今まで大変だっただろうし、今はゆっくり眠ってよ。

 


 

 

 

 6月18日、木曜日。
朝は曇っていたが、昼から雨が降ってきた。
 地球が流す弔いの涙といったところか。だがそれがただでさえ冷たい君の身体を濡らす。
 濡れるのはわたしの頬だけでよかったのに、と折り畳み傘の中のわたしは思った。

 

 

 

 

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