散歩をしよう!

 

 

 最近は以前より食が細くなったようで、すぐお腹がいっぱいになってしまって少し困っています。

 わたしは舌が肥えているほうではなく大体のものはおいしく感じられるので、食べることは結構好きです。なのでたくさん食べて「ああいっぱい食べた、おいしかった」と思いたいのですが、近頃は「まだ食べたいのにもう食べられない」という悲しい事態が起こっています(ちなみにこれは追加の話であって、食事を残すわけでは全くないのでご安心ください)。

 だからたくさんお腹をすかそうと思って、不定期ではありますが歩いてみることにしました。距離は特に決めていません。行きたいところまで行って、帰りたくなったら帰ります。

 

※ルートはそれなりに色々歩いたのですがいい写真が撮れない日も多々あったので、季節をかなり跨いでいます。そういえば今年は秋をあまり感じられませんでしたね。

 

 

 

 

 

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 歩きに行こうと玄関で靴を履いていたら網戸にニイニイゼミがいました。わたしは蝉の中でも体が小さくあまり出会うことのないニイニイゼミツクツクボウシが好きなので、とても幸先のいいスタートです。

 のんびり夕方の街を歩きました。

 あんなにうるさかった蝉の合唱も小さくなっていました。少しずつ季節が終わっていきますね。けれど歩いていると少し汗ばむぐらいの気温で、まだ夏の余韻は残っているようです。

これで蚊もいなくなってくれればもっとよかったんですけどね。

 

 

 

              ↓母f:id:shr0319:20210928224157j:image

 この日は母も一緒だったのですが、わたしが歩くのが遅すぎてかなり序盤で置いていかれてしまいました。どうして。

 

 道でいろんな虫が死んでいました。

 そういえば、一説によると虫には痛覚がないそうです。一生が長くないから、痛みを学習して未来に経験するであろうより程度の重い苦痛を回避する必要がないらしいですね。

 一生が長いにしてもなるべく痛みは経験しないほうがいいと思うんですけど、どういうつもりなんでしょうかね、人間の脳は。

 

 

 

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 気付いたら夏の終わりを肌で感じられる時期になっていました。コオロギやキリギリス、スズムシの鳴く声が聴こえます。

 道中でキリギリスの子どもを見つけました。

大人しい子でしたが、帰り道でお別れするまでちょくちょく親指をかじられていました。食べないで。

 公園で子どもたちが遊んでいました。わたしも昔は外遊びが大好きでしたが、歳を重ねた今ではすっかりインドア派で、”晴読雨読”という感じです。最近ようやく積んであった本をすべて読み終わりました。

 

 

 

 道中の写真ばかりもアレなので歩きながら聴いている音楽も載せます。と言いつつ毎回ほとんど同じ曲ばかり聴いているんですけどね。

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  indigo la Endの『夜風とハヤブサ』。夏終わりかけてるんですけどね。

サビの「あなたが好き 私がフォトグラファーだったら 夏って感じで切り取るのに」という部分が好きすぎて、聴くたびに「好きだ…(脳死)」となります。

 

 

 

 

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 たまに友人たちと行っていたカラオケ店が見る影もなくなっていました。ガラス扉の向こうは瓦礫の山で、前までそこに何があったのかはもう我々の記憶でしかわからないようです。

 ですが、いつかその記憶もなくなって、古い思い出は新しい当たり前に淘汰されていくのでしょう。

 思い出があった事実は消えませんが、記憶はやはり消えてしまうものです。少しずつ薄らいでいって、最後には雪のように儚く溶けて消えます。しばらくすればそこに雪があったことすら忘れてしまうでしょう。

 憶えていたいことはたくさんあるのに、わたしたちの脳はそれを許してはくれません。「さよならだけが人生だ」というのはあながち間違ってはいないのかもしれませんね。

 

 

 

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 ネコチェンがいました。

わたしは好きな映画館があるこの通りが好きなのですが、愛しい風景がまた増えました。でも野良猫は本当はあまりいてはいけない存在なので、複雑です。

 今はサブスクなどで映画が手っ取り早く観られてしまう時代ですが、わたしは映画を観るときは絶対に映画館で観ます。

 その理由としては、わたしは「映画館」という空間が大好きなので、そこで映画を観ることに大きな意味があると思っているからです。

 映画館まではそれなりに距離があるし、特別安くはないお金を払っても期待していたほどではないときも時にはあります。ですが、それもいい思い出になります。

 「映画を観ること」は「経験すること」です。お金や移動の手間をかけずに映画を観られるのは楽でいいことかもしれませんが、そうやって気軽に観られるからこそ失ってしまう大事な感覚もあるとわたしは思います。

 とはいえタイミングが合わなくてリアルタイムでは上映されていないときももちろんあります。そういうときは仕方がないのでレンタルショップで借りてテレビ画面で観ます。

 わたしは手間が好きなのかもしれません。

 

 

 

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 空が綺麗な日でした。うろこ雲は秋の代表的な雲ですね。

 「読書の」「食欲の」「芸術の」などという枕詞がついたりする季節ですが、実際のところはどうなんでしょうか。

わたしは季節関係なく読書も食事もアートも楽しんでいるので、あまりピンと来ていません。大抵のことは秋でなくとも十二分に楽しいので…。

 でも、散歩は秋がいいかもしれませんね。涼しくて歩きやすいし、虫たちの鳴き声も季節を感じさせてくれます。

 

 

 

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 この日もぼんやり歩いていました。この辺りから写真を撮ることが趣旨になっていることを確信しました。

 歩きながら赤いライトに照らされた黄色い花を撮りました。説明がないと全くわからない写真ですね。

 

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 これは見ての通り、通学路を示す標識です。フォントがいいなと思ったので思わず撮ってしまいました。

 フォントの話は以前このブログでもしましたが、わたしは少し癖のあるフォントが好きです。たとえば「筑紫B丸ゴシック レギュラー」や「姫明朝ともえごぜん」、「数式フォント」も素敵ですね。もちろん他のフォントも素敵です。

 文字の持つイメージを線の幅や曲線、角度を駆使して伝えるのって、よく考えるとすごいことですよね。2次元のものをどうにかして3次元に近付けている。

結局それが平面から出ることはないけれど、こだわればこだわるほど読み手が受け取れる文字の情報は確実に多くなるでしょう。これはとても素晴らしく、尊いことです。

 フォントって、ホントにいいものですね。

 

 

 

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 閉店後のスーパーの横を歩きました。

 青緑のライトが中を照らしていて何だか不気味でした。

 調べてみましたが、お店が閉店後も照明を落としきらないのはどうやら防犯カメラの照度の問題が大きそうでした。あとは衛生上の理由(”殺菌灯”と呼ばれているそうです)とか。

 とはいえこの中に物盗りで入りに行くのはなかなか勇気がいりそうですよね。ホラゲ脳が騒ぎます。

 

 

 

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 銀杏BOYZの『少年少女』をリリースされてからというもの、かなりの頻度で聴いています。この曲を聴くとなぜか走り出したくなります。

 わたしは峯田さんが書く、純粋で青臭いまである春の詩が大好きです。銀杏BOYZを初めて聴いたその次の日にはCD屋さんに行ってアルバム2枚とシングル1枚を買っていました。

 わたしは『BABY BABY』と『エンジェルベイビー』、『アーメン・ザーメン・メリーチェイン』が特に好きです。『いちごの唄 long long cake mix』も好きです。『夢で逢えたら』も。つまるところ、好きです。

 

 

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 これは今まで撮った中でも特に気に入っている写真です。

 ここはクリーニング屋さんです。

わたしはこの街にそれなりに長く住んでいますが、このお店が開いているところはまだ1回も見たことがない気がします。でも表の緑は枯れることなくむしろ見るたびに増えている気がして、不思議です。わたしとタイミングが合わないだけなんでしょうか…不思議です。

 

 

 

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 これはアルバイトの帰りにぼんやり歩いているときに撮った夜の空です。肉眼では星がたくさん見えたのですが、カメラにはあまり写りませんでした。

 

 ところで、冬は他の季節に比べて星が綺麗に見えますよね。

それは空気が乾燥しているから、というのと、冬は日が出る時間が短く太陽の光が雲などに映る”残照”というものがあまりないから、という理由があるそうです。

勉強になりましたね。

 

 

 

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 髪を切った帰り道にレンタルしていたCDを返しにいきました。写っているのは「止まれ」の”ま”の部分です。

 髪はばっさり10cmほど切りました。髪を切ってから数日経ってもなおドライヤーのときに恐ろしいほど髪が落ちてくるのが本当に心配でした。絶対抜け毛。かなしい。

 

 

 

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 あてもなく歩くのは楽しかったです。

ぼんやり歩いて、帰りたくなったら家を目指してまた歩く。音楽を聴きながらいつもは流してしまう景色を歩くスピードのまま眺める。

見慣れた風景でも普段注目しない部分に目を向けてみると、意外と新しい発見があるものです。花が咲いていたり、確かにあった建物が見る影もなくなっていたり。

 そして何よりご飯がおいしい。

ただぼんやり歩いて帰ってきただけで、温かいご飯がよりおいしく感じられる。ありがたい話です。

当たり前のことのように聞こえるかもしれませんが、これはとても重要なことだと思います。

 

 実は”日常”というものは、非日常の繰り返しでできています。

それには予期せぬアクシデントだけでなく、誰かと友達になったり恋をしたりすることも含まれます。そういった”非日常”に慣れた先にあるのがわたしたちが当たり前としている”生活”なのだとわたしは思います。

 産まれたばかりのときの記憶なんてほとんどないけれど、当時だってきっと初めての出逢いばかりでそれに戸惑って泣き叫んでいたのでしょう。”わからないこと”は怖いから。

 でも、わかろうとして、そして実際にわかっていくことはとても楽しいです。苦しい勉強でもわかってみれば意外と楽しく思えるように。

 

 生きていると年齢を重ねていくわけですが、それでもわからないことは尽きません。きっと死に至るときさえそれらが全て解決することはないのでしょう。

 でもそれでいいとわたしは思います。人生において全てがわかってしまっては面白くないですから。

 「たかが散歩で人生を語るな」と思われるかもしれませんが、果たして本当にそうなのかは皆さんの足で確かめてみてください。

少なくとも健康には近付くはずです。